「延岡の歴史を学び、遠くふるさとを想う」

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「延岡の歴史を学び、遠くふるさとを想う」

2014年11月28日 | 工藤 | お知らせ
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   勉強会のご案内   代表 長友景一(延高32年9回卒)
延岡の「むかしばなし」を勉強しようということで創めたものです。年3回、
明治大学教授伊能(いよく)秀明先生と他数人の先生にお願いして講義を受け
ています。知らんことばっかりでいろんなことを知ることが出来ました。
在京の延岡出身者が、高校の別なく、延高以外の延西高、延工高、延商高、
高千穂高のOBの方が出席しています。
ぜひ、ご出席ください。今までに講義を受けた主な内容は下記のとおりです。
1.延享4(1747)年 内藤家9代政樹公のとき磐城平藩より日向国延岡7万石
へ転封となる。老父母を残して6月から暫時2,000人以上の移動が始まる。
水戸街道、中山道を経由し京伏見へ、大坂を経て海路延岡へ向かう。出発
から60日間掛けて土々呂に上陸。延岡到着後に住居の割り当てを受ける。
莫大な費用は内藤家の負担となる。

2.充真院繁子(14代政順公の正室)は制度改革により江戸在住を解かれ延岡
への途中、各地の風物詩、名所名物などを旅日記として紹介している。
繁子は幕府大老井伊直弼の実姉で、また実弟の政義は15代藩主である。

3.「西南戦争と延岡」の勉強会では、官軍に追われて各方面から延岡に敗走
して来る薩軍3千5百人、細島に上陸した官軍5万人が延岡に攻め入ろうとし
ている。このままだと延岡の町が完全に焼失するのは明らかと、延岡市長
である大区長塚本長民は薩軍隊長桐野利秋に町中からの退去を懇願する。
薩軍は延岡の市民に「大変世話になった」と言って、東海方面に移動したので
難を逃れた。この翌日、明治10年8月15日朝8時、和田越え辺りで白煙が上が
るのが延岡の町中から見えたという。これが西郷隆盛の最後の勇姿となった。

4.野口雨情は延岡を4度訪れている。大正11年12月に雨情の友人、声楽家
で延岡出身の権藤円立(ごんどうえんりゅう)と演奏会のため立ち寄っている。
円立は明治24年延岡船倉町の光勝寺生まれで、旧延岡中学から東京芸術大に
進み声楽のバリトンを専攻し作曲も学ぶ。昭和4年2度目の来延では、東海
小学校、岡富小学校の校歌を作詞/野口雨情・作曲/権藤円立で制作され、
今日でも歌われている(これに関する記事は本年26年度の東京延友会会誌に
寄稿してある)。

   ●次回の勉強会
    12月6日(土)13時40分集合
    明治大学大学会館(御茶ノ水)
    議題 伊能先生による「内藤家文書に見る譜代藩政」

        お問い合わせは 東京延友会事務局まで
                興梠 年男・長友 景一

 

工藤 author

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